あの日と同じ流れの岸

9年前、さいきん関東から転勤してきたアラサーのふたりは、ちょっと吹雪く12月の仙台でどこに飲みに行けば良いのかわからずクリスロードをさまよっていました。

忘年会シーズンでどこのお店も混雑していて、たまたま入れたお店でよくしてもらって、その後も頻繁に行くようになりました。

その後ふたりで行ったゲイバーはたまたまダブルママがふたりとも同年代でよくしてもらって、仙台がとても楽しくなっていきました。

いろんな交友関係が増えていって、仕事はわからないことだらけで上司とも折り合いはよくなかったけど、楽しいことがたくさんあって、楽しい人達ともたくさん知り合って、僕は仙台がとても好きになりました。

ジャイアンツファンだったのにすっかりイーグルスファンになって、毎年野球を見に来ているみたいです。

好きだった人とはお付き合いできなかったみたいですけど、いろいろな友達・知人はできて、仙台から離れてからも幸せだなって思っているみたいです。

もはや9年前、僕はどういう気持ちで仙台に来たのか覚えてないけれど、たった4年間の仙台生活、思う存分楽しんでやっていけ、クリスロードを自信を持って歩けるようになるから、って31歳のたいしに言ってあげられることは胸を張れるし、僕にかまってくれたみんなに感謝しながらほろ酔いでいつもの仙台駅を眺めた。

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いつもモジモジしてる弱虫

ニッキを更新してなくても見てくれてるって聞いてうれしかった。

個人ホームページをやってた時、アクセス解析を病的なまでに確認していた。どれくらいの人が見てくれてるのがすごく気になって、僕はその感情を当時は自己顕示欲って呼んでたんだけど、あの時に承認欲求って名付けていれば良かったなって自分のセンスの無さを恨む。

 

またこうやってなにか書き始めたのは僕の自己顕示欲の悪いクセ。たぶん少ないながらも誰か僕の書く内容を気にしてくれる人がいて見てくれるだろうっていう淡い期待。だから誰かが見てくれている、と思える限りはこうやってネットの海に残していけるから、僕の自己顕示欲はまだ満たされているんだろうなって思う。

 

30代が終わりついに40歳になってしまった。なんの感慨もなくあっけなく40歳になった。30代を振り返るとやっぱり仙台にいたことが僕にはとっても良い時期だったわけですよ、たった3年くらい10ヶ月だったとしても。

 

仙台の最初は、最近仙台に来た可愛くない方、みたいな扱いだったけど、それでも交友関係が広がっていって、自分が自分がってなにかを発信する必要もなく楽しく過ごすことができて、仕事は初めての経験でしんどかったはずなんだけど、ほんと仕事以外のところでみんなに救われたなって思う。

 

仙台の最後の一年は、折り合いの悪いことがあったりでちょっと嫌な気分になったこともあって、今から考えると僕の悪いクセで自分を出しちゃってたせいもあるのかなって思うことがある。その一方で仲良くし続けてくれてた人もたくさんいて、僕はどう振舞っているのが正解だったのかやっぱりわかんない。

 

今日のニッキは自己顕示欲の話でうまくまとめるはずで、自己顕示欲を出しすぎると良いことなんてないんだから、って話にしようと思ったんだけど、こうやって書いている間に、だって自分を出さないと僕がそこにいる意味がないんだし、こんな僕だから付き合ってくれている人もいるのかもしれないし、なにが正解なのかまたわかんなくなってきた。不惑の40代のはずがまだまだわかんないことだらけだねってことと、こんなんでも気にかけてくれているみんなへの感謝の気持ちで、40歳最初のニッキは終わります。

それぞれの未来が咲き誇る

自粛、という言葉が嫌いだ。

 

僕は気が強いし口調も荒っぽいところもあるって自覚してるくせに、なんでこの人こんな言い方するんだろ、とか、こんなふうに言えば波風立たないのに、とか、他人の選ぶ言葉遣いに対してやたら厳しいことも自覚してるし、嫌いな言葉を言わない人が好きなわけです。

 

自分が記憶している限り、自粛って言葉がよく使われていたのは3.11の後が思い出される。あのときはなんとなくの雰囲気でいつの間にか自粛ムードが終わっていたのが気持ち悪かった。誰かが作り出した自粛ムードに乗っかって、誰かが終わらせてもいいんじゃないのというムードを作り出したんだと思うけど、いつの間にか自粛ブームは過ぎ去っていた。あのとき被災された方々の気持ちはどうだったのか、僕はずっともやもやしていた。

 

時を経て10年、また自粛という言葉がひとり歩きしている気がする。自粛という言葉を辞書で引いたら、「自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと」らしい。自分から進んで行うことなのに、自粛しなさい、と他者から言われることってどうなの、って思う。自粛じゃなくて自制せよ、じゃないのか。

 

自分自身が自制できてるかどうかはさておきになってるのは重々わかっててこんなニッキ書いてるのはどうかと思うが、我慢というと負のイメージ、自制できる人というと自分を律することができる人で立派に見えてくるんじゃないかと思うわけですけど、欲望を抑えずに生きていた方がそりゃ楽しいだろうし僕はなにを気にして自分を抑えてきたんだろうと思うと、今が楽しけりゃそれでいいじゃんあとは運ゲーくらいの勢いで生きてきたらどんな人生だったんだろうなって恨めしく思うことが多い。

酔っ払ってみる景色はなにもかもがあざやかなんだ

洗足池で見た雪景色が、思ったよりもきれいでうれしかったのでみんなに見てほしかった。

 

ミュージシャンが政治的な主張をしてなにが悪い!みたいなミュージシャンたちの意見がここさいきんちょいちょい出てくるんだけど、誰が悪いと言ってるのか誰と戦ってるのかよくわかんないし、そんな主張抜きにして好きだなって音楽を作ってくれる人の音楽を聴きたいなって思う僕は意識が低いのだろうか。単純にもうややこしいことを言う人の曲は聴きたくないので、もう僕は意識の低い人で結構です。

 

東京60WATTSの外は寒いからって曲は、明るくてあたたかくてちょっぴり切なくて、僕の大好きな曲なんだけど、わかってくれる人がほとんどいなくて、こんな良い曲なのになんだか泣けてくる。僕がニッキをまた書き始めたのも、よくわからない思いが誰かに伝わればいいな。

 

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「あなたがこれまでにした最大の選択について」

個人ホームページ(笑)をやっていた頃に書いたニッキ。2003年5月7日。これを3年後の会社員生活3年目にmixiに転載していた。当時就活真っ最中、「あなたがこれまでにした最大の選択について」というテーマで作文せよ、という某企業(チケットぴあ)の課題で出した文書。なかなか決まらなくて焦ってた。書類選考で落ちた。今から考えると落ちてよかったのかも。良い文書だと思うんだけどな、自己実現(笑)とか言ってたヤツらよりも僕の方がいましっかり働いてると思うし、末尾の考えと根っこは15年間変わっていない。

 

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就職活動はお金がかかる。午前中の面接が終わり、交通費を浮かせようと次の会場まで電車に乗らずに歩くという<選択>をした。歩くのに疲れたので、道端の花壇に座って休むという<選択>をした。午前中の面接官の高圧的な態度でイライラしていた。横にホームレスのおっちゃんが座る。道で拾ったという500ウォン硬貨を僕に見せ、「にぃちゃん、これ、500円になるんか?」と聞く。話をするべきか、無視して立ち去るべきか。次の説明会までまだ時間がある、話をしている間にイライラが消えるかもしれない、と思い、おっちゃんと話すという<選択>をした。
 「あなたは何のために仕事をするのですか?」面接で何度も何度も聞かれた質問。いつも僕は「飯を食うため」と答え、面接官の失笑を買っていた。「自分の成長のため」「社会の人たちを笑顔にするため」と自信を持って答える人たちを見て、自分の仕事観を改める必要を感じ始めていた。
 ホームレスのおっちゃんは名古屋から大阪に来ていた。名古屋よりも大阪の方が仕事は見つかりやすい、7月に仕事が増えるからしばらくは辛抱する、きつい仕事なのに賃金は割に合わない、その日の仕事が見つかるかどうかは運次第だ、そうだ。 
 おっちゃんも僕も仕事を探しているという点では一緒だ。しかし決定的に違うのは、仕事を選べるという贅沢を僕は味わえるということ。仕事を楽しむという贅沢を味わうからこそ、その仕事に対する責任は大きくなる。最も大事なことはその仕事を全うすることであり、「自分の成長のために云々」はその後の話だ。仕事を楽しむ余裕が出来てくるのは、腹が膨れてから、喉の渇きが癒えてからである。
 おっちゃんと話をするという<選択>をしたことで、「仕事をするのは飯を食うためです」と自信を持って言えるようになった。飯を食うために仕事をするなら、どんな仕事でもイイじゃないか、と言われるかもしれない。確かに矛盾しているが、やりたくない仕事をやらなければいけない時に、歯を食いしばって仕事をするという覚悟は出来たと思う。
 「ジュース1本めぐんでくれんか?」と言われ、僕は120円を自動販売機に入れた。おっちゃんはジョージアのコーヒーを飲むという<選択>をした。「今度お金返すわ」と言い、おっちゃんは去っていった。僕のイライラした気持ちは何時の間にか消えていた。おっちゃんと話をするという選択が、僕にとって最も大きな選択になるかどうかは、まだわからない。

 

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2003年5月7日のニッキ。会社に行くのは飯を食うためだと今でも、思う。

明らかに極めると書いて

せっかくブログ始めたので連続投稿をする。

僕ってどんなニッキ書いてたのかなってmixiを見返してみた。小っ恥ずかしいけどちゃんとその時々をもがいてるし考えてることってあんまり変わってないなって思った。

さいきんアカペラ経験者の友達とカラオケいったときにハモりごっこをしてるんだけど、やっぱ僕は音感悪くてダメダメなわけで、そんなダメダメでしんどかったんだろうなっていうときのニッキをリバイバル

 

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2008年11月17日

 

珍しく眠れないから、セカイイチを聴いてる。

 

アカペラを辞めた。というか逃げ出した。

 

申し訳無いし無責任やしみっともないし恰好悪いし情けないけど、歌えないし音がわかんない。居たたまれない。

 

ヘタっぴな僕の歌声を好きだと言ってくれた人たちがいて、僕のへっぽこアレンジで歌ってくれた仲間がいて、僕の音感の悪さに付き合ってくれた人たちがいて、辞めようとする僕を引っ張ってくれた人がいて、いろんな人たちと出会えて、僕のアカペラ生活は楽しかったんだと思う!

 

音痴なのに大学のアカペラサークルに入ってしまって、そんなんやから誰も一緒にバンドを組んでくれなくって、キーボード片手に音のズレが無いか録音してそれを聴くことを何度も何度も繰り返して、ようやく少しずつ少しずつハモれるようになって、自分たちのバンドが主催でライブハウス借り切ってライブ出来るようになって、誰よりも苦労したから音楽を楽しむことについては人一倍だって胸張って言えて、けどやっぱり音感が良いのに越したことはなくて、サークルの上層部から評価されなくって、でもね、僕がストリートライブに立つと、どこのバンドよりも小さい子達とか主婦とかおじさんおばさんとか、音楽とは無縁の人たちが集まってきてくれて、あーそんなこと思い出すと、なんの未練もないはずなんやけど、泣けてきちゃうよね、せっかくちょっと眠たくなってきたのにまた寝れんくなってきたからこのへんで終わる。

僕は勉強しかできない

山田詠美の「ぼくは勉強ができない」って小説、よく内容は覚えてないけどすごくおもしろかった気がする。かたや「ぼくは勉強しかできない」ってタイトルだと読む気も起こらない。

 

僕はまさしく勉強しかできない子で、絵も下手だしドッヂボールも逃げ回ってるだけで最後まで残っちゃうし担任の先生からは「周りから浮いてます」って家庭訪問で言われちゃうし、親が教育熱心なタイプでは全くなかったのにもかかわらず、パラメータを全振りで勉強に特化しちゃったタイプなわけなんですよ。

 

そうすると周りからは「あいつは勉強しかできない」って揶揄される。今だったらお前らは勉強すらできないやんって言い返すんだろうけど、そのときはそんなことも言えるはずなく、勉強しかできないことを恥じるしかなかった。自分の長所であるはずのことが短所であり、自分に自信が全くなくなって育ってしまった。

 

箱根駅伝の青山学院の選手達が自信に溢れている表情をしているっていうツイートを見かけたわけなんですけど、やっぱ褒められて育って自信を持たせた方が活き活きするんだろうなって。もう40歳にもなろうおっさんが自分に自信が、なんて言ってるのももうダサくて言えないし、自分の子どもができるわけでもなくてそういうふうに育てられるわけでもないから、この歳になって思うのは、会社の後輩達が自信を持って仕事をできるように、その手助けをできるようになれれば少しは自分の自信になるのかなと思った。